日本に到着して、二時間。私は拠点先のホテルに荷物を置くとすぐに工藤邸へと向かっていた。此処に、沖矢昴という大学院生を名乗って赤井さんが滞在している。
「よし……行こう、っ」
赤井さんが生きていると報告を受けた時、私が一体どんな気持ちだったか。赤井さんはきっと、考えたこともないんだろう。事前の打ち合わせ通り裏口から敷地内に入っていくと、タイミングを見計らったかのように玄関のドアが開いた。
「……入れ、」
聞いたことのない男性の声に、私は一瞬焦った。入るべき家を間違えてしまったかと思ったけれど、でも今この家には赤井さんしか住んでいないと聞いている。つまりこれは変声機で声を変えた赤井さんだ。
「失礼しま……」
玄関に入ると、そこには栗毛で眼鏡を掛けた男性が腕組みをして立っていた。事前に写真で見てはいたけれど、目の前にいる彼が赤井さんだとはとても思えない。でも身体の厚みはただの大学院生にしてはしっかりし過ぎているし、深いため息を吐きながら、顎で「入れ」と促すしぐさは彼そのもの。
「っ、ほんとう、に……?」
「……これで信じるか?」
玄関のドアが閉まったのを確認してから尋ねると、彼は首元の機械を操作し元の声に戻ってみせた。久しぶりに聞く懐かしい低い声に、心の奥がギュっと締め付けられる。
あの日、ジョディさんから電話で赤井さんの訃報を聞かされて以降、私は今まで以上に仕事に没頭し、赤井さんのことを考えないようにして過ごしていた。彼を失って初めて気づいた、自分の想い。それを認めないように、そしてきっと何かの間違いだと心のどこかで願いながら。
「あかい、さん……っ」
「何故来た」
「……え、?」
彼が生きているという事実を噛み締めていた私は、赤井さんの質問にすぐ答えることができなかった。
「何故だ、」
再度、聞かれた問いにも私は答えられない。玄関で靴も履いたまま立ち尽くす。赤井さんは私では実力不足だと、そう言いたいのだろう。
そう、仮に私が少しでもミスをすれば、CIAも絡んでいるこの作戦は全て水の泡だ。文字通り、自分もその周りの人も命の保証はない。それは当然分かっているけれど、FBIから新たに組織へ捜査官を送ると決まった時、私は真っ先に手を挙げていた。一瞬の迷いもない、赤井さんの力に微力でもなれるのならとその一心で。そうして数名の候補者の中から長官が私を直々に指名してくれたのだ。
「でも私は……っ」
「ジェイムズが“追加で潜入捜査を行う”と言い出した時からその作戦には後ろ向きだったが、その上、潜入する捜査員が君だとは。まだ間に合う、俺に言われたと、そう言って引き返すんだな」
赤井さんが鋭い視線を私に向ける。どうして、そこまで言われなくてはいけないんだろう。
赤井さんが日本に行っている間、私が何をしてきたか知らない癖に。長官に信頼されていると、そう自負できるくらいには努力してきたのに。一番、認めて欲しい人には、まだまだ認めてもらえない。
「……何だ?」
「そんな風に言わなくてもいいじゃないですか。さすがに傷つきます」
「お前な、」
「そもそも久しぶりの再会なのに……」
しかも赤井さんは亡くなったと、そう聞いていた上での再会なのに門前払いされるなんて。私は赤井さんへ鋭い視線を送っていたけれど、でも彼の顔は全くの別人であるからどうしても違和感は残る。
「……全く、」
赤井さんは深いため息を吐きながら、頭を左右に振った。呆れたように見えるその態度は、諦めの証拠。ある意味、私の勝ちだ。
「なら、一旦やり直しです」
「……名前、」
「だって、っ……私、赤井さんが生きているって知って、!」
「……っ」
「いいです、とにかく……おかえりなさい、赤井さん!」
そう言って思いっきりハグをすると、赤井さんは予期していなかったのか、少しよろめいていた。でも少し間をおいてから背中に片手を置いてくれる。さすがに、ここで突き放すほど鬼ではないのも、私は知っている。
「そして、私は帰りませんからね、絶対に」
彼の小言の一つや二つ、私は華麗に受け流せる。赤井さんといた約2年間、私は散々迷惑をかけて怒られてばかりだった。それでも彼は私を見離さず、どんなミスも全てリカバリーしてくれていた。だから私は、少しでも追いつけるようにと必死に赤井を真似た。結果として、距離だけは無駄に近しい間柄になってしまっているけれど、その分何でも言い合える。
「……靴を脱げ、ここはニッポンだ」
「わ、ごめんなさいっ」
案内されたリビングのソファーで待っていると、赤井さんが紅茶を持ってきてくれる。こうして見ていると、知らない男性のお宅にお邪魔しているようだ。なのに赤井さんが元の声で話出すから頭が混乱する。
「ジェイムズから聞いたが、自ら志願したらしいな」
徐に話し出した赤井さんに、私は気を引き締める。ローテーブルを挟んで向かいに座る彼は長い脚を組んで顎を上げていた。
さっき私に飲み物を聞いた時とは違う、棘の付いたような言い方に彼の怒りが垣間見れる。やっぱり適任者ではないと思われているんだ。でも、私だって生半可な気持ちで此処にいる訳ではない。それが伝わるように、私はゆっくりとティーカップを持ち上げ、あえて一口、紅茶を味わった。さっぱりとした、アールグレイだった。
「そうです、自分で手を上げました。私なら、この見た目ですしFBIとは勘付かれないはずです。CIAとも連携しているので、仮に公安が私を調べたとしても足はつかないかと」
「……彼を甘く見ない方がいい」
「彼って、バーボン、ですよね?今は、安室透と名乗って喫茶ポアロで働いているという」
「彼に近づくつもりなのか?」
「まだ、予定はしていないですけど……」
ただ、いずれはそれも視野に入れて動くことになるだろう。公安として潜っている彼は、組織の中で孤立している。彼がどう動くにせよ、バーボンに有利になるようサポートできれば私は良いパイプ役になれるはず。
「とにかく、まずは組織に馴染むことからですね」
上が、ある程度手を回してくれている状態ではあるけれど、組織への入り方が何よりも大事。波風立てず、自然と黒に染まっていくのがいいだろう。こうして赤井さんと呑気にお茶しながら話せるのも、今のうちだ。そうしてもう一口、紅茶を味わっていると赤井さんは反対にカップをソーサ―の上に置く。カタン、と上品な音が部屋に響いた。
「それで、どうやって潜入するつもりなんだ……名前?」
ここからが本題だと、言わんばかりの雰囲気に私は思わず唾を飲み込んだ。動揺を隠しきれなかったことが悔しい。正直、赤井さんには知られたくなかった。あまり褒められるような方法ではないと、分かっているから。
「……私はネームドを目指しません。いい駒として、周りに使われているのが一番ですから」
「聞こえなかったか?俺は潜入方法について聞いたんだ」
「赤井さんの時はどうだったんです?」
「話をすり替えるな」
これは触れてはいけない領域だったのか、赤井さんは先程よりもずっと鋭い視線を私に向けている。怒られ慣れていない人がこの視線を受けたら、きっと怯んですぐに謝ってしまうだろう。実際、私も言いそうになってしまった。
「とにかく……方法はどうあれ、大事なのはその後です」
何とかこの話を終わりにしたくて話題を変えるけれど、赤井さんも譲る気はないらしい。スマホを手に立ち上がったのを見て、私も立ち上がった。長官に電話するつもりなのかもしれない。
「っ、待って、赤井さんっ!」
「黙っていろ、」
「私、出来ますから……!大丈夫ですか、ら……っ!」
スマホを握る彼の手を掴んで止めさせようとしたのに、気づいたら私はソファーにうつ伏せで伏していた。赤井さんによって、片手を後ろ手に絞められて肩に痛みが走る。横を向くと視線の端、赤井さんが荒くスマホを床に投げ捨てているのが見えた。
「こうなった時、君はどうする?」
赤井さんは片膝を私の背中に乗せて、ぐっとぐっと踏み込む。彼の体重が掛かって、ソファーに身体が沈み込んだ。逃げようと身を捩るけれど、動けば動くほど、絞められた肩が軋む。これは完全に、油断していた私のミスだ。まさか、赤井さんに絞められるとは思ってもみなかった。
「あの組織は、何をしでかすか分からん連中ばかりだぞ」
赤井さんは私の肩を掴んで、強引に仰向けにさせると片膝で押さえつけた。若干の痛みに顔を歪ませながら見上げると、“沖矢昴”が感情の読めない表情で私を見下ろしている。
「あっという間に、このザマだな」
わざと沖矢昴の声に、わざわざ変えて赤井さんは私を嘲笑った。感覚としては知らない男性に組み敷かれているようで、自然と悔しさが溢れてくる。なんとか逃げ出そうと暴れるけれど、押さえ付けられた手首はビクともしない。ならば彼の急所を狙おうと足を動かせば、逆に股関節も固定されてしまった。沖矢昴が、私の脇腹に手を添えてじりじりと迫ってくる。
「っ……ま、って……っ!」
動けない、逃げられない。自分の知らない感覚に脳が麻痺してくる。見知らぬ男性に覆い被さられて、無意識に声が震えてしまう。
「その気になれば、あそこに居る奴らは誰だってこうできる」
「……っ」
「君の尊厳を奪うことも、厭わないだろう」
沖矢昴の声のまま、彼は私の首筋に頭を埋めた。生暖かい吐息がかかり、にゅるりとした舌先がぞわぞわと上がってくる。
「んぅ、っ!……や、っ!」
指先が震える。知らない男性に好きにされてしまうかも知れない。その恐怖で身体が支配される。抵抗もままならない。なんとか手首を動かそうとすれば、今の倍以上の力で押さえつけられた。だめだ、力の差があり過ぎる。
「っ……あかい、さっ!」
私は目を閉じながら、身体を震わせていた。少しだけ、私の手首を抑える力が弱まっていく。
「……こういうことだ、」
先ほどよりも穏やかな声色に、私は導かれるように目を開ける。赤井さんが眼鏡を床へ落としていた。その瞳は至近距離で見るとハッキリと分かる。優しい、赤井さんの瞳。
「わたし、っ……」
やがて足の拘束も解かれて身体が楽になる。赤井さんは私の首の後ろに手を差し入れ、ゆっくりと起き上がらせてくれた。目が潤んでいる気がして視線を逸らしていると、そっと抱き寄せられる。
「そんなこと、させられない」
「……っ」
「名前が行くべき場所ではないよ」
赤井さんの声が、身体の奥深くまで染みわたっていく。私は、選択を間違えたのだろうか。
「っ……でも、」
「誰がお前を助ける?」
「……っ」
「何かあっても俺は隣にいない。仮に事に及ばず潜入できたとしても、その日はいずれすぐに来る」
そんなの分かっている。でも、そうして得られるメリットの方が大きい。多少の我慢で、大きな収穫を得らるのであれば私は。
「そうして自分を押し殺している間に、心も蝕まれていくんだ。全てが終わった時、もう今の君はいないかもれない」
赤井さんの手が私の頬に添えられる。大きく、あたたかい掌に包まれ、そして大事なものを扱うように親指でそっと撫でられて。ひしひしと伝わってくる赤井さんの気持ちに、ほんの少し揺らぎそうになった。
「でも……」
「そんな君を、ただ見ていろと……俺に言うのか?」
どうしてだろう、何故か凄く胸が苦しくなって、痛くなって。目の中も熱い。翡翠色の瞳が揺れて見えた。
「馬鹿だな……っ」
違う、私の瞳が濡れていたんだ。気づいた時にはもう、頬に一筋の涙が伝っていた。赤井さんの胸に抱き寄せられ、その腕に包まれる。平気だと思っていたけれど、でも本当は。
「大人しく米国にいれば良かったものを……」
頭の頂上にキスを落とされ、私は静かに目を閉じた。慈悲に溢れた抱擁に胸の中がいっぱいだ。やがて涙は止まったけれど、代わりに見上げた赤井さんの瞳は悲しそうで。そうして額同士が触れ合った時にようやく、自分達の想いが通じ合ったような気がした。
「っ、ごめん、なさい……」
「馬鹿だよ、君は」
頬にキスが落とされ、見つめ合う間もなく唇も重なる。それはただ触れるだけの、幻かと思うようなキス。一瞬の出来事に頭がぼーっとしていると、赤井さんは沖矢昴の変装を剥いでいた。
「あ……っ!」
彼を呼ぶ声が、唇ごと飲み込まれていく。熱くて蕩けてしまいそうなのに、胸の奥が切ない。力無く赤井さんのシャツを握ったまま、私は全てを受け入れた。愛おしそうに後頭部を撫でる手も、極めて繊細な動きで私の口内を撫でる唇も、全てから愛が伝わってくる。
「っ……ん、」
やがて離れていく唇を、私は名残惜し見つめていた。
「とにかく、この案はなしだ。異論は認めない」
「っ……え、?」
「それよりも良い方法がある。名前なら上手くやれるだろう」
「……でも、いいんですか?ジェイムズさんが、」
「良いか、名前。我々は従順であることだけが求められている訳じゃないんだよ」
そうして私は、例の組織に潜入するのではなく、喫茶ポアロにてアルバイトをすることになったのだった。